同族嫌悪やノンパスに対する嫌悪感を抱いて、トランスジェンダーとの関わりを一切断って、女社会で生きてきた私が、考えを変えるまでに、考えさせられた事。

「環境のせいにして努力を怠るな!変わりたければ前に進むしかないだろ!」

「努力しても、結果に出ない人だっている!その人達が存在できる場所だって必要だ!」

どっちもその通りだと思います。

私も、過去に前者のように考え、後者を認められない時期がありました。

それだけではなく、同族との関わりを一切持たずに女社会で生きてきました。

自分自身トランスジェンダーでありながら、どこかでトランスジェンダーと同じでありたくないと、パスの可否関係なく彼女らを避けてきました。

彼女らと関わる事で女じゃなかった時に戻るみたいで、やはり自分は女ではなく、トランスジェンダーなのだという現実を突きつけられるようで、なにか嫌だったのです。

多分そんな時にどっちが正しいかと問われたら、私は迷いなく前者と答えたのではないでしょうか。

昔の私はそうでした。

しかし、女じゃない現実に何度もぶち当たり、身体に出た不調やトランスを理由にした婚約破棄など、やはり女社会に身を置いてはいても、見た目がいくら同じでも、女と自分には違いがあるということを嫌ほど味わってきました。

それでも、女としての生活は続きます。

それは、後ろ向きな意味ではなく、良くも悪くも、私の日常は女として流れるのです。

だけど、普通の女と同じように生きていたら、女との違いに躓くことになるのです。

もちろん、女として生きるという事には揺らがないのだけど、違いは違いとして受け入れなければ、繰り返し躓き、自分を追い込むことになります。

日常付き合いがあるのは、女として生きていたら、やはり女が多く、共通する話題も多いのですが、やはり女特有またはトランスジェンダー特有のデリケートな話題においては、共感しきれない部分もあるわけで、キッパリ割り切る反面、自分自身の調子によっては、孤独感を抱くこともありました。

私は、トランスジェンダーを理由に、婚約をギリギリのところで破棄された時、周りに本当の理由を告げられず、いくら話を聞いてもらっても、励ましやアドバイスをもらっても、私には的を大きく外した射的のようなもので、全く刺さらないのです。

それでも、それは自分が選んだ道なのだから、それを非当事者に分かって欲しいと言っても無理な話ですし、自分が普通の女と同じようにしたい、生きたいと思ったところで、この世界がファンタジーで無ければ無理な話で、自分の過去は変えられないのです。

だからといって諦められるような夢や目標なんかではありませんので、普通の女でなくても、女として生きていくしかないわけで、普通ではない自分として、毎日やってくる今日という一日を歩いていかなければならないのです。

普通の女と同じように考え生きると躓く自分の女としてのリアルを、自分なりにやり易いように試して、失敗と成功を繰り返しながら、積み上げて、最後には自分なりの区切りをつけて、受け入れて、今があるわけです。

環境に負けずに突っ走る努力ももちろん大切ですし、そのような時期は誰にでもあるし、必要だと思います。

私にも、そのような時期はありましたから。

しかし、それだけが正解なのではなくて、様々な経験を一通りして、たくさんたくさん考えさせられて、悩んで悩んで悩み抜いた後に、後者にも頷ける時が来ると思います。

その時、一つ人生の階段を上がれたってことなんじゃないんかなと、私は考えます。